高麗人参についての基礎知識

高麗人参の深い歴史

高麗人参といえば、ほぼ知らない人はいない有名な漢方薬です。パワフルな栄養がたくさん詰まっており、様々な体のトラブルの解決に役立つものです。
しかし、具体的に高麗人参とは何か、どこから来たのか、どういう歴史があるのかについてまでご存知の方は少ないかと思われます。
今回は、高麗人参の歴史について見ていきましょう。

そもそも高麗人参とは

高麗人参と呼んでいるこの植物は、別名として朝鮮人参、人参、山蔘、オタネニンジンなどとも呼ばれます。
単に人参と呼ぶと、よく料理で使われるオレンジ色の根菜が想像に浮かぶと思いますが、全くの別物です。
一番の違いとしては、所属する科です。高麗人参はウコギ科に属するのに対し、人参はセリ科です。そのため、我々が普通の食事で食べる方は「せり人参」と呼ばれることもあります
「高麗人参」という呼び方自体、実は日本から逆輸入された呼び方であり、それまでは単に人参と呼ばれることが多かったようです。

また、高麗人参は中国東北部にある長白山の山岳地帯や、朝鮮半島やシベリア東南部の山奥にしか自生していない貴重なウコギ科の多年生植物でした。生育には条件があり、涼しくて乾いている気候、かつ降水量・降雪量の少ない地域でないと育ちません。高温多湿なところでは育つことが出来ません。

高麗人参の特性として、育ち切るまでには6年もの歳月を必要とします。6年間をかけて植わった土中の栄養分を全て吸い上げてしまうため、一度高麗人参を植えた土地はその後10年から20年は使い物にならなくなるといいます。

それだけの栄養吸収率を持つからこそ、実際に人間が摂取した時の薬効も高いというわけです。

高麗人参のはじまり

高麗人参の利用自体は4000~5000年も前からされていたようですが、高麗人参について触れた古い文献は、約2000年前、中国の後漢の時代に張仲景という医師・政治家が書いた「傷寒雑病論」という中国漢方医学の祖となった本。
そして、農業と医学の創始者であると言われる伝説の人物である神農が実際に自分で摂取し、その効果をまとめた薬物書最古の古典である「神農本草経」。
更に前漢の時代に書かれた、「急就篇」という文字を学ぶためのテキストの計三冊が、高麗人参について触れています。

これらの内「神農本草経」で、高麗人参については「五臓を補い、精神を安定し、邪気を除き、身を軽くして寿命を延ばす」「毒は全くなく、いくら長く服用しても人体に害のない薬として一番に挙げられるのが高麗人参である」と記載されています。また、非常に効果の高い生薬であるともランク付けされています。

古くから貴重な薬として使われてきた高麗人参。それが中国・韓国だけでなく日本にも来るようになった始まりは、奈良時代は天平11年に渤海の国王で文王と呼ばれた三代目国王、大欽茂によって出された使いが日本にやってきて、時の天皇であった聖武天皇に高麗人参を30斤(約18キロ)を奉呈したことからだと言われています。
聖武天皇の没後、貧しい人や病人を救うために「悲田院」「施薬院」を創設したことで知られる、妻の光明皇后が生薬として高麗人参を人々に薦めていたという記録が残っています。
また、現存する最古の高麗人参も正倉院に残っており、東大寺に収められている「種々薬帳」にも高麗人参についての記載が残されています。

当時、高麗人参は国家財源の一つに数えられるほど貴重かつ高価なものであり、国家儀礼においても最高の贈り物としての役割を果たしていました。それを考えると当時の日本と朝鮮の間には非常に良い関係が築かれていたと言えるでしょう。

その後、14世紀の終わりごろに朝鮮国が樹立。その際朝鮮政府が真っ先に行ったのは高麗人参の管理でした。乱採を防ぎ、国家の財政に活用しようと考えていたためです。ただの薬用植物一つが、国の政治の根幹に関わった例は珍しく、それがどれほど大事なものだと考えられていたか、薬効の強さを含めても愛されていたかお分かりになるかと思います。

日本ではしばらくの間、国内での高麗人参の栽培は成功していませんでした。種も得られたのは遅く、江戸時代になってからようやく国内栽培に乗り出したのです。最初は1607年に、徳川家康が伊達政宗たちに高麗人参の種子を与えて試作を命じていましたが失敗。その後本格的な栽培研究が始まったのは第八代将軍徳川吉宗の頃でした。

それまではずっと朝鮮半島から高麗人参を輸入し、対価として幕府は「人参代往古銀」と呼ばれる、純度が80%もあった特注の銀貨を支払っていました。

やがて1722年に小石川薬園にて高麗人参の国産化のための試作研究が始まり、その6年後の1728年の日光御薬園ではじめて国産栽培に成功しました。
この時得られた種子は一度は全国の藩に分けられましたが、1736年には一般庶民に対して種子を販売
開始。江戸本石町で幕府直々の販売だったため、ここで「オタネニンジン」という呼び名が生まれたのです。
そうして1760年頃には普及するようになり、全国で栽培されるようになりました。その後続いて朝鮮、中国も栽培を始めるようになり、高麗人参はその株数を多く増やし、幅広く用いられるようになっていったのです。

1960年代にもなると、需要の全てを国産の高麗人参で賄うことも可能になっていました。しかし、輸入品の方が安価だという理由から国産の高麗人参の市場は縮小され、今はほとんど韓国・中国からの輸入に依存している状態となりました。今でも数は少ないながらも、国産の高麗人参は細々と作られ続けています。

高麗人参を愛した人たち

長い歴史を持つだけあり、高麗人参は世界各国の偉人たちにも愛されてきました。産出国の韓国・中国にとどまらず、同じアジアの日本、更にはヨーロッパにまで伝わっています。
実際に高麗人参のエピソードのある人物を見てみましょう。

韓国・中国

始皇帝

中国で初めて多くの国を統一した王朝を築いた始皇帝。その晩年には不老不死を求めて様々な妙薬や霊薬と呼ばれるものを使いを出して見つけさせていたと言います。高麗人参もまたその一つで、特に山奥に自生しているものを求めていたといいます。言い伝えによると、山奥深くに生えている高麗人参を食べたものが仙人になったというものがあるため、始皇帝もその話にすがって探し求めたのでしょう。真偽はどうあれ、そういった伝説がすでに生まれるほど高麗人参の力は信じられていたのです。

楊貴妃

クレオパトラ、小野小町に並ぶ世界三大美女の一人であり、かつ古代中国四代美人の一人にも数えられている楊貴妃。白居易によって作られた『長恨歌』などに歌われるように、仙女のようにしなやかな美しさを持った彼女の美貌の源の一つが高麗人参だったと言われています。

日本

徳川家康

江戸幕府を開いた徳川家康は、健康オタクだったことでも知られており、常に携帯するほど高麗人参を愛飲していたと言われています。当時は寿命がいいとこ50年、平均したなら30~40年ほどだったと言われている時代に、家康はなんと75年も生きていたというのですから、高麗人参の力にも説得力が生まれるというものです。

また、黒田官兵衛や徳川吉宗といった人々は高麗人参の栽培と研究に力を注いでいたことでも知られています。

ヨーロッパ

ルソー

フランスの思想家のジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』などを著したことで有名です。彼は弟子にブルボン産のコーヒーをおみやげにもらった際、お返しとして愛用していた高麗人参を送ったという記録が残っています。

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世

在任期間中に韓国を二度訪ねるほど韓国が好きだったようです。ローマ法王が高麗人参を健康のために摂取していたことで他国の大使たちの間などでも高麗人参が流行り、ブームが起きていたそうです。

この他、ロシアの作家ゴーリキーやイギリスのエリザベス女王も愛用していたとのことです。

長い歴史を持つ高麗人参は、今もなお世界中で愛され続けています。これからもきっと数々の人々の健康にしてくれるでしょう。

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